2022-07-02

五十嵐先生

油画専攻のS先生から突然メッセージが来たので何かと思ったら、五十嵐先生の訃報だった。



あの五十嵐先生が亡くなった。
 
 
 
 
金沢美術工芸大学で五十嵐先生に出会ったのは2年の終わり頃だった。私がフランスのどこかに1ヶ月語学留学したいと青柳先生に相談したところ、じゃあ五十嵐先生を紹介するわ、みんなで話しましょうと言われて出会った。もう定年退職されていたのだが、ラテン語や古代ギリシャ語の授業が出来る人など他にいないので ほとんどボランティア状態で美大に来られていたと思う。
好奇心の塊みたいな方で、めちゃくちゃ博学。教諭というよりか研究者という肩書きがあっていた。私がボルドーに1ヶ月行くことを決めるなり、「最近ボルドー近郊のシャトーを巡る本を読んだばかりなんだ!」と言って、来る気満々。私よりウキウキしていた。
結局先生は青柳先生と一緒に私の留学先ボルドーに遊びに来られ、3人でレンタカーで本の通りシャトー巡りをした。子供みたいにはしゃいでおられた。ホストファミリーに誘われ家で食事をしたりした。授業を受けたこともない全然知らない先生なのに笑、私の保護者みたいだった。
 
 
4年生のとき、初めて五十嵐先生の必須授業があった。五十嵐先生ってこんな授業するのか!と不思議な感じがした。と同時にせっかくだしと思って 古代ギリシャ語の授業も特別うけさせてもらった。生徒数が4人とかだったので、かなり必死に予習復習しないといけなかった。辛かったけどあの先生の研究室に遊びに行くの、とても好きだった。
学校に来ては校内を歩きまくって、万歩計の歩数を稼いでいた。病気をしていてもタフに色んなところをとびまわっていた。
 
 
私がフランスに渡ったあとも先生と連絡はしょっちゅう取っており、何かと理由を見つけて会いに来てくれた。ナンシーにもナントにも来てくれたし、パリでも時々会った。金沢でも会ったし、あんなに学校以外で交流のあった先生は珍しい。
 
 
 
 
コロナ禍になり、海外旅行が以前のように出来なくなって先生はきっとかなりショックだっただろうと思う。年に4〜5回はフランスに取材などで来ていたし、それが出来なくなって余程悲しかったと思う。
 
心配してメールを送るとすぐにメールが来たけれど、「私は精神的に参ってしまいました。」と弱音を吐いていて驚いた。今までの先生なら絶対に書かなかったことだ。
自分の好奇心の赴くままに生きてきた人にとって、このように自由を奪われることがどれほど辛かったか。
 
 
 
 
 
今は
悲しいというより、信じられなさすぎて呆気にとられているというのが正直な感想だ。
金沢に帰って先生にフランスの生活の話できないと思うと、胸に穴が空いたような感覚を受ける。

本当にたくさんお世話になりました。
もう一度だけでもお会いしたかったな

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