2016-06-28

Paris → Amsterdam

パリの凱旋門近くのホテルで一泊、翌日パリ市内の中心地をぶらぶら。

セーヌの水位上昇も、おさまってよかったわぃ(*o*)


北駅からアムステルダムへ電車で出発!
電車で3時間ほど。sncfとは違って高級感のある車内。(写真はありませんけど)
で、ツイターー!


2年ほど前に数日滞在したことのあるアムステルダムですが(→前回の滞在はこちら)、今回も早足でしたが、本当、まじよかった(*o*)

こちらはアムステルダムに着いた夜、ウエイターが手に持っていた美味しそうな料理に誘われて入ったメキシカンレストランで食べたナチョス。(今でも思う。なんでメキシカン食べてんろ?でもハイネケンも飲んで、美味しかったからよかった)

翌日には運河クルーズもしました!
これが、、、まじよかった。。。。
1時間かけてぐるーっと市内の運河をまわるのですが、何がいいって、あの「ゆるさ」。

前回両親が来てくれたとき、パリのセーヌ川クルーズも乗ったけど、もう全然違う!パリのは大人数を乗せてあっちゃこっちゃ往復して終わりだった。アムステルダムはパリよりすごく小規模だからか時々プライベート船と道を譲り合うこともあったし、街の建物もすごくキュートでかわいかった。わたしが印象的だったのは運河沿いに、現地に住む人々の生活がみれたこと。っていってもほとんどの人がビール瓶片手に運河沿いに腰掛けてダベってるだけなんですが、この緩い感じが、なんかすごくいいなーって思った。



日本に住む人々はこういうひとときがあるんだろうかなぁとふと思った。お金をかけずに自然の中で大切な友人たちと過ごす時間が。



たくさんの美術館をまわって、時々カフェで休んだり。
現代美術館がとてもよくて、なぜ前回行かなかったのだろう。レンブラントの家の近くに古着屋もあって、ちゃっかりシャツも買ってもらったり。(旅中の買い物というのは本当難しい)
旅というのは面白いものだが、やっぱり健康な体あってこそのものですね。



オランダ料理のお店でごはん。
最後の夜はうちの父、美味しそうなお肉を食べてました。

翌日両親はスキポール空港から日本へ。私たちは電車で→パリ→ナント。別れはやっぱりさみしいですねー。

両親にとって普段慣れない長距離の飛行機は大変だっただろうに、わざわざ来てもらって本当にうれしかったです!ありがとう^^



ナントからアムステルダムまで、電車の問題は一切なく、本当に楽しい旅でした〜
・・・と思ったら、ナントに着いた途端、交通機関全スト!(*o*) なんとトラムもバスも一切無し!!!大雨の中、私とボリス唖然。どーしたものかって、タクシーしかないやん。長い列に並んでやっとタクシーに乗り、家に帰りました。


2016-06-25

Nantes →Giverny

親子旅回想編。

ナントでは以前行ったことのあるフレンチレストランを予約。
私、ここ大好き(*o*)
前菜3種、主食3種、デザートは6種から選ぶこじんまりとしたレストランなんだけど、本当お・い・し・い!以前両親がナントに来てくれた時行ったのはLa cigale。そこはアールヌーボーの装飾が綺麗だけどレストランの規模も大きくせわしなくて。今度はもっと気の使わないところがいいなと思っていたのでした。

前菜のサーモンのタルタル。激うま

私が選んだリゾットとタコ。これも激うま(*o*)

なんの魚か忘れた、、いわしのマリネだったかな。もちろん激うまー!

量もそこまでがっつりじゃない、でも食べ終わるとお腹いっぱい。
料理人とウエイターさん二人でやっている小さなお店です。ビール派の私たちは飲みませんでしたが、ワインも美味しいお店です。
Etrillum (22 rue Armand Brossard, 44000 Nantes)




翌日は早起きして、パリへ。
まずはホテルによって荷物を預ける。


Saint Lazare 駅からVernonまで電車で45分。
そこからバスに乗って15分。つきました〜
雨ザーザーでした〜

お花好きの母が気に入るだろうと、父が提案したモネの庭園。本当に素晴らしいところでした。最初は雨に打たれてどうなるかと思ったけど、庭に着いた頃には止んで、助かりました。

遠いところ、わざわざ来て本当に良かった。
長旅で疲れているだろう両親も楽しそうで、私も嬉しかったでーす!


2016-06-21

家族でヨーロッパ旅行

両親と一緒にナントからアムステルダムまで、旅をしてきました。

2人一緒にきてくれたのは5年ぶり。滞在日数5日という相変わらずの過密スケジュール。ナント観光→パリ(ジベルニーのモネの庭園)→パリ市内観光からアムステルダムへ→アムステルダム観光。でした。



実は今回の旅、すんごい不安でした(*o*)
労働法反対の鉄道会社のスト、オイルショック、セーヌ川の氾濫、ゴミ回収のスト、サッカーの試合等の暴動など不安材料盛りだくさん。労働法反対の件で、両親がナントのアトランティック空港に着く前日にも空港周辺道路を閉鎖していたし、それを知った瞬間は車で迎えに行くのが無理だったらどうする、と一瞬パニックになってしまいました。

実際その日になってしまえば問題はなく、奇跡的にも(?)パリ行きへの電車、パリからジベルニーへの電車、市内のメトロ、アムステルダムまでのタリーズの電車などすべて時間通りにいきました。一度も遅れなかったと思う。すごい!



詳しいことはまた後日書きます。今朝2人が無事金沢の実家に着いたと知らせを受けて、ほーっと安心しました。


2016-06-14

天気

やっぱり雨が続くけど、時々晴れ間が出る。



インターネットの天気予報をみても、いつもこれなので、どうしようもない。




2016-06-13

Aの話 − 最終話

ボリスがそのメールを受け取ったのは月曜日の夜だった。

私たちを散々困らせたあのAが、この世を去った。28歳だった。




いつものように私とボリスはくだらない話を交わしながら、パソコンの前でメールチェックをしたり、私は11月の個展のために文章を書いていたところだった。ふとボリスが私に「ちょっと、いい?大事なことなんだ、聞いてくれる?」というので、(真面目な顔して、急にどしてんろ)と思って振り向くと、「Aが、死んだ。」と言ったのだった。


A、と書くのはもうやめることにする。彼の名前はAlexisアレクシーという。アレクシーに最後に会ったのは(道ですれちがったのは)、もう6ヶ月も前のことだ。私たちが前住んでいたアパートの近くのバス停のベンチに彼は座っていた。終始へらへら笑っていたので遠くから見てもお酒を飲んでいるのは明確だった。「よー!」と手を振る彼にボリスは頼りなく手を振り、私たちはそのままその場をあとにした。
実はその数日前に彼はボリスと私を電話でひどくけなしたばかりだった。彼のデッサンを預かっていたボリスに対して「俺の絵をそのまま盗るつもりだろう。何様のつもりなんだ。」彼が学生時代に描いた大きな絵を、自宅に置く場所がないから預かっていてくれないかと頼まれ、私たちのガレージに保管してしたのだが、その話を持ち出し「早くあの絵たちを返せ。」などと長々酷い口調で散々ボリスを罵倒したあげく、終いに彼は「外国人となんか付き合ってないで、フランス人の彼女くらい見つけたらどうなんだ!」と言ったのだった。
私はあまりにショックだったので、ここにその出来事を書こうなんて思いもしなかったし、ボリスと私は「もう関わるのはよそう。お酒と薬のせいで妄想の度合いがおかしくなっている人に1から説明しても無駄。私たちはなにも出来ない」と判断した。(ちなみに預かっていたデッサンは彼に返さなければと、その後ボリスは必死の覚悟でアレクシーと会う約束をして出向いたが、彼は来なかった。夜になってボリスに電話をよこし「寝ていた」と一言いっただけだった)



私は街で彼に出くわしたらどうしようと怯えていたように思う。挨拶をするべきか、世間話なんてできる状態なのか?そもそも私達のことをけなしたことだって何一つ覚えてないかもしれないし、そんな人間と私達は友人といえるのかさえも分からなかった。だから、私は街中で彼に会ってしまわないかと、いつも心の底でビクビクしていた。


そんなこんなで6ヶ月が過ぎた。以前彼は予告なしにうちのインターホンを押したが、それも引越ししたおかげで無くなった。私はアレクシーのことを時々思い出しては、大丈夫かな、絵は描いてるんだろうか、などと思っていた。数ヶ月前に聞いたうわさだと、彼は道端でもめて刑務所に数日入っていたらしい。1年半前一緒に展示をした時、数ヶ月間お酒をやめていて「話」ができる状態だったのが、夢のようだと思った。


ボリスにメールをくれたのは、彼の義兄弟だった。父はガンで死に、母は自殺で数年前に他界、祖父母からも見捨てられ、独り身だったアレクシー。義兄弟とは年が離れていることもあり交流は無いと聞いていたが、彼らはなんとかボリスと他数名の連絡先を見つけ、連絡をくれたのだった。
そんな彼の家庭状況を知っているからこそ多くの人が彼に同情し、手を貸した。しかし彼は決して良くなることはなかった。全く手に負えなくなった。それぞれ理由はあるにせよ、彼の友人たちは皆ナントを離れ始め、気づけばナントに残ったのはボリスと私だけだった。


彼と関わったことのある誰もが、彼の死を一度は想像していたにちがいない。私もボリスも、何度かその話はしていた。でもまさかこんなに早く逝ってしまうなんて、誰が思っただろう。










私は仕事を抜け出して、病院に出棺の立会いに行った。「出棺」といったが、本来はフランス語でfermeture du cercueil(直訳すると「棺の閉鎖」)。ボリスのお父さんが亡くなったとき、ご遺体を見なかった私はとても後悔した。今でも彼が生きているような、ふわふわした感覚が時々やってきて、ものすごく不思議な気持ちになる。だから今回は悔いのないようにと思い、意を決してアレクシーに会いに行った。
ご家族の姿はなく、私たち二人と他4名の友人がいただけであった。通された部屋には棺が置かれていたが、葬儀屋の人によると死後から発見まで時間がかかったためご遺体は「見えない」状態だと言われ、なるほど棺の蓋はすでに閉められていた。
そのまま葬儀屋と警察の方々は手際良く棺をボルトとネジで閉めていった。2分とかからなかったかもしれない。それで、出棺は終わった。あっけなかった。






翌日火葬場には前日よりもより多くの人が集まった。美術学校時代の旧友、担当教諭、学校関係者が集まった。義兄弟のお二人はアレクシーを本当に知らなかった。どんな絵を描いていたかも、これだけ友人がいたことも、あれだけ魅力的な文章を書いていたことも。全く知らなかった。
集まった友人の中に、ポリーヌを見つけた。彼女はアレクシーが最初の自殺未遂をしたとき、一緒に病院へ通った友人だ。彼女とは学校で言葉を交わす中だったが、アレクシーのことでより親密になった。しかし親密になったといっても話すのはいつもアレクシーのことだったし、会うのはいつも病院や病院の敷地内。彼女と私たちがアレクシー無しに会うことはほとんど皆無だった。
火葬場で彼女を見つけた瞬間、4人で過ごした時間が急に蘇ってきて、涙が止まらなくなった。恥ずかしいくらい、子供みたいに皆の前で泣きじゃくった。ポリーヌはとても困った様子だったが、一緒に泣いてくれた。


火葬場で行われたお葬式はとても簡素で、ものの数分で終わってしまった。しかしその数分のために、地方から友人達が集まってくれた。わたしたちは悲しみの中にいながら、久々に旧友と時間を共有し、とてもいい時間を過ごしたのだった。






最後に、アレクシーの死因はまだわかっていない。というよりか警察が情報を公開してくれないので分かりようがない。ただ他殺ではないこと。わたしたちの予測ではおそらく酒と薬のオーバードーズであるが、分からないことが多いので、なんとも言いようがない。

自宅で一人で息を引き取った彼は、最期まで孤独だった。私たちは本当に無力だった。

2016-06-06

トム。

先日パリまでとんぼ返り。イギリス人アーティストのTom Davisに会ってきた。彼はまだ22歳という若きアーティスト。近々彼のジンをChambre Charbonから出す予定があるので、パリに来るという知らせを聞いて、休みもらって行ってきました。

今回初めてイギリス国外に出たという彼。そのせいか、手加減なしのナチュラル英語だった。。。
(話すの早いよーーー(*o*)
(全く分かんないよーーー(*o*)
(泣きそうだよーーーーー(;_;)

彼はとても親切で感じのよい好青年だった。いい奴すぎて、わたしの英語力が申し訳なかった。それでもギャラリーをまわったり美術館行ったり、アートの話もしたり、いろいろ一緒に見れて面白かった^^

わたしがわざと和製英語を教えてあげると、めっちゃ笑ってくれた。
あいすくりーむ、じゃけっと、のーとぶっく。。
あ、「ターナー」がすぐに伝わったのが、なんかびっくりしたなぁ

パリに住む友人宅でアペロ(食前酒。つまり一杯引っ掛ける的な意味?)を。彼らはセーヌの氾濫にめちゃくちゃ不安がってて、ミネラルウォーターを買いだめしていた。

その日一日中英語に苦戦していたわたしは、このフランス人の友人宅でのひとときに、ものすごく「安堵」していた。フランス語もちゃんと立派に話せないって自暴自棄になるときだってあるというのに、英語ができないからといって仏語に逃げてはだめだなと思ったのでした。っていうか中学1年からやってた英語の時間、一体なんだったんだろ。高校時代あれだけ時間を費やして覚えた英単語は、わたしの頭のどこに残っているというの。。あぁ

 
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